研究・学会発表
戦時下に描かれた絵画(IV)
「寺崎武男の描いた戦争絵画の周辺と調査」
「寺崎武男の描いた戦争絵画の周辺と調査」
1. はじめに
今回の発表では、弊社にて継続的に調査している「戦時下に描かれた絵画」調査の4回目として寺崎武男が描いた戦争画に関して発表する。戦時下に描かれた戦争に関わる作品には記録を目的に描写されたもの、国策に乗じ戦闘の士気を高めるもの、いわゆるプロパガンダとして描かれたものや、「鎮魂」また、感情のこもった叙情的な作品も存在する。どの作品に関しても記録や芸術表現に関して「戦争」という大きなテーマを描いた昭和の文化財だ。弊社では公・民に紛れているものも含め、反戦と平和を願い、また我が国の絵画史資料の保存として当時の表現記録を後世に残すことを目的とした修復や調査を続けている。今回の調査では、女子美術大学理事長の大村智氏の収蔵作品のなかから確認した寺崎武男による「アッツ島血の雪」(1820×920mm)「ミッドウェー海戦」(1700×1280mm)の2点に関し調査した。今回は寺崎武男のご長男、寺崎裕則氏から多くの資料や証言を頂いた。寺崎武男は明治16年に生まれ、東京美術学校卒業後、ヴェニスとベルリンを本拠地に、フレスコやテンペラ・エッチング・水彩画・油画などさまざまな絵画技術を学び、我が国に持ち帰り、洋画の発展に貢献した画家だ。戦時下では東京美術学校を卒業し、昭和七年に海軍省より東京美術学校長の正木直彦氏に、艦船を描く洋画家の照会があり寺崎武男が推薦された。当時館山にアトリエを構え、館山航空隊の予備学生が休みの日に遊びにくると手厚くもてなしたという。そのような親しい交流があってか寺崎武男は戦時下では犠牲者の鎮魂を願い戦争画を描いたのだった。寺崎裕則氏によれば、寺崎武男は「負けた戦争」しか描かず、「義憤」の心が制作の原動力になっていたと聞く。発表では、寺崎武男の描いた戦争画の中から2つの作品の調査結果を報告するが、これら2つの作品と同じテーマで描かれた作品が米国より無期限貸与の形で東京近代美術館に納められており、一点は藤田嗣治の描いた「アッツ島玉砕」と、北蓮蔵作、「提督の最後」という作例だ。寺崎武男の描いた作品も含め、これらの作品は当時、一大テーマとして画家が取り組んだ事実情報を踏まえ創造した戦争の姿だ。
本論では寺崎武男がテンペラによって描写した「アッツ島血の雪」と「ミッドウェー海戦」に描かれた内容を確認しながらテンペラで描かれ軸装されたこの作品と、同一のテーマで描かれた藤田嗣治、北蓮蔵の作品とも比較することで、寺崎作品との共通性や、当時は比較的珍しいテンペラ技法での表現の特質を考察する。このような確認と発表により、この歴史的な作品の希少性を探る。
今回の発表では、弊社にて継続的に調査している「戦時下に描かれた絵画」調査の4回目として寺崎武男が描いた戦争画に関して発表する。戦時下に描かれた戦争に関わる作品には記録を目的に描写されたもの、国策に乗じ戦闘の士気を高めるもの、いわゆるプロパガンダとして描かれたものや、「鎮魂」また、感情のこもった叙情的な作品も存在する。どの作品に関しても記録や芸術表現に関して「戦争」という大きなテーマを描いた昭和の文化財だ。弊社では公・民に紛れているものも含め、反戦と平和を願い、また我が国の絵画史資料の保存として当時の表現記録を後世に残すことを目的とした修復や調査を続けている。今回の調査では、女子美術大学理事長の大村智氏の収蔵作品のなかから確認した寺崎武男による「アッツ島血の雪」(1820×920mm)「ミッドウェー海戦」(1700×1280mm)の2点に関し調査した。今回は寺崎武男のご長男、寺崎裕則氏から多くの資料や証言を頂いた。寺崎武男は明治16年に生まれ、東京美術学校卒業後、ヴェニスとベルリンを本拠地に、フレスコやテンペラ・エッチング・水彩画・油画などさまざまな絵画技術を学び、我が国に持ち帰り、洋画の発展に貢献した画家だ。戦時下では東京美術学校を卒業し、昭和七年に海軍省より東京美術学校長の正木直彦氏に、艦船を描く洋画家の照会があり寺崎武男が推薦された。当時館山にアトリエを構え、館山航空隊の予備学生が休みの日に遊びにくると手厚くもてなしたという。そのような親しい交流があってか寺崎武男は戦時下では犠牲者の鎮魂を願い戦争画を描いたのだった。寺崎裕則氏によれば、寺崎武男は「負けた戦争」しか描かず、「義憤」の心が制作の原動力になっていたと聞く。発表では、寺崎武男の描いた戦争画の中から2つの作品の調査結果を報告するが、これら2つの作品と同じテーマで描かれた作品が米国より無期限貸与の形で東京近代美術館に納められており、一点は藤田嗣治の描いた「アッツ島玉砕」と、北蓮蔵作、「提督の最後」という作例だ。寺崎武男の描いた作品も含め、これらの作品は当時、一大テーマとして画家が取り組んだ事実情報を踏まえ創造した戦争の姿だ。
本論では寺崎武男がテンペラによって描写した「アッツ島血の雪」と「ミッドウェー海戦」に描かれた内容を確認しながらテンペラで描かれ軸装されたこの作品と、同一のテーマで描かれた藤田嗣治、北蓮蔵の作品とも比較することで、寺崎作品との共通性や、当時は比較的珍しいテンペラ技法での表現の特質を考察する。このような確認と発表により、この歴史的な作品の希少性を探る。
2. 「アッツ島血の雪」「ミッドウェー海戦」2つの作品に描かれたモチーフと戦史
2つの作品はどのような経緯で描かれたのだろうか。旧日本軍によるアッツ島への上陸とミッドウェー海戦は戦史上、大きな関わりを持ちミッドウェー海戦の結末は敗戦へと繋がり、その後の戦争の流れを大きく変えることとなった。また旧日本軍によるアッツ島の攻略はミッドウェー戦の陽動作戦、また南方への戦略と同時に米ソの連絡網の遮断、米軍機の我が国本土への攻撃のための航空基地の開発の阻止を目的に、陸軍北海支隊と海軍北方部隊との協同によりアリューシャン列島に攻め込む戦略でもあった。
「アッツ島血の雪」に描かれた軍刀を持つ兵士や背景の突撃する兵士たち、灰色の盛り上がった凍土が描かれている。画面左下には「二六0三年 寺崎武男 五月2廿九日」と皇紀年号で書かれ戦時中の昭和18年と確認できる。アッツ島への上陸は、最終的に指揮官だった陸軍中将 山崎保代部隊長をはじめ守備隊が最終的に援軍を得られず武器弾薬の補給も絶たれ、いわゆる「玉砕」したことでも知られている。山崎部隊長の最期は生還した日本兵の証言や、米国側の記録等により、その最期の姿が伝えられている。血のりの付いた日本刀を抜刀し降伏勧告などは聞き入れず銃弾のなかで絶命したとされる。この作品には山崎部隊長の姿を中心として表現されている。「ミッドウェー海戦」では、1942年6月、ミッドウェー島をめぐった海上戦であり、島の攻略をめざして攻撃した日本に対してアメリカ海軍が迎え撃ち、日本海軍は航空母艦4隻とその艦載機を失う大損害を受け島の攻略に失敗、その後の戦局を大きく変えたものだった。寺崎武男の描いた「ミッドウェー海戦」では航空母艦「飛竜」に搭乗した司令官、海軍中将 山口多門と艦長の海軍少将 加来止男の最期の艦上での姿が具体的に描写されている。飛龍が戦闘不能に陥り、軍艦旗を降ろし提督が総員退艦を命じた様子を再現している。画面の中央左方にて敬礼するのはその2人と観られる。
2つの作品はどのような経緯で描かれたのだろうか。旧日本軍によるアッツ島への上陸とミッドウェー海戦は戦史上、大きな関わりを持ちミッドウェー海戦の結末は敗戦へと繋がり、その後の戦争の流れを大きく変えることとなった。また旧日本軍によるアッツ島の攻略はミッドウェー戦の陽動作戦、また南方への戦略と同時に米ソの連絡網の遮断、米軍機の我が国本土への攻撃のための航空基地の開発の阻止を目的に、陸軍北海支隊と海軍北方部隊との協同によりアリューシャン列島に攻め込む戦略でもあった。
「アッツ島血の雪」に描かれた軍刀を持つ兵士や背景の突撃する兵士たち、灰色の盛り上がった凍土が描かれている。画面左下には「二六0三年 寺崎武男 五月2廿九日」と皇紀年号で書かれ戦時中の昭和18年と確認できる。アッツ島への上陸は、最終的に指揮官だった陸軍中将 山崎保代部隊長をはじめ守備隊が最終的に援軍を得られず武器弾薬の補給も絶たれ、いわゆる「玉砕」したことでも知られている。山崎部隊長の最期は生還した日本兵の証言や、米国側の記録等により、その最期の姿が伝えられている。血のりの付いた日本刀を抜刀し降伏勧告などは聞き入れず銃弾のなかで絶命したとされる。この作品には山崎部隊長の姿を中心として表現されている。「ミッドウェー海戦」では、1942年6月、ミッドウェー島をめぐった海上戦であり、島の攻略をめざして攻撃した日本に対してアメリカ海軍が迎え撃ち、日本海軍は航空母艦4隻とその艦載機を失う大損害を受け島の攻略に失敗、その後の戦局を大きく変えたものだった。寺崎武男の描いた「ミッドウェー海戦」では航空母艦「飛竜」に搭乗した司令官、海軍中将 山口多門と艦長の海軍少将 加来止男の最期の艦上での姿が具体的に描写されている。飛龍が戦闘不能に陥り、軍艦旗を降ろし提督が総員退艦を命じた様子を再現している。画面の中央左方にて敬礼するのはその2人と観られる。
3. 同じモチーフを描いた藤田嗣治、北蓮蔵の無期限貸与作品と観る寺崎武男の表現
同じテーマを描いた藤田嗣治の描いた「アッツ島玉砕」、北蓮蔵作「提督の最後」加えて寺崎武男の描いた作品も、これらの作例は、事実情報を踏まえ創造した戦争の姿だ。寺崎武男作の「アッツ島血の雪」では実在の山崎部隊長を主役に表現しており、藤田嗣治の大作では画面全体にわたり細密に描かれたが、両作品には共に兵士の姿・アッツ島の凍土・雪・アッツ桜など、この戦いにまつわる必須のモチーフがそれぞれに異なった表現で描かれている。「ミッドウェー海戦」北蓮蔵作、「提督の最後」においても提督と艦長、軍艦旗、艦上での最期の姿が具体的に描出され、寺崎武男も登場人物や状景を同じように具体的に描き残している。
同じテーマを描いた藤田嗣治の描いた「アッツ島玉砕」、北蓮蔵作「提督の最後」加えて寺崎武男の描いた作品も、これらの作例は、事実情報を踏まえ創造した戦争の姿だ。寺崎武男作の「アッツ島血の雪」では実在の山崎部隊長を主役に表現しており、藤田嗣治の大作では画面全体にわたり細密に描かれたが、両作品には共に兵士の姿・アッツ島の凍土・雪・アッツ桜など、この戦いにまつわる必須のモチーフがそれぞれに異なった表現で描かれている。「ミッドウェー海戦」北蓮蔵作、「提督の最後」においても提督と艦長、軍艦旗、艦上での最期の姿が具体的に描出され、寺崎武男も登場人物や状景を同じように具体的に描き残している。
4. 2つの作品に観るテンペラでの表現と作品の状態
水性と油性の混在した媒材のテンペラでの表現は、同じモチーフを描いた藤田や北の使用した油画とは異なる表現を観ることができる。「?血の雪」では油画技法のような絵具のインパストや、アッツ桜の描写では日本画の岩絵具に観るような筆触で繊細に描写し、また空の表現では水が油を「はじく」様な水性、油性の混在する媒材の現象的な筆触など多彩な質感が現れている。寺崎武男は、水性と油性の混在する媒材の起こす効果を描写表現に利用し、「ミッドウェー海戦」でも、紙の明るさを活かしながら水彩画のように薄く絵具を塗り重ねてみたり、燃える戦艦の煙や、軍艦旗の描写では油絵具のように盛り上げたりもし、さらに空や煙には水を多めに混ぜ、ここでも水と油がはじくようなテンペラ媒材の引き起こす現象が見られる。これらの戦争絵画は軸装され、丸めて保管されている。利便性を考慮し、持ち歩けるようにしたとも考えられるが、支持体には折れなども発生しており、絵具のインパストなど厚塗りされている箇所もあることから、本来は保存を考え軸装から解体しパネル仕立てや裏打ちしての額装などを推薦したい。状態を考えた今後の修復の方針を検討したい。
水性と油性の混在した媒材のテンペラでの表現は、同じモチーフを描いた藤田や北の使用した油画とは異なる表現を観ることができる。「?血の雪」では油画技法のような絵具のインパストや、アッツ桜の描写では日本画の岩絵具に観るような筆触で繊細に描写し、また空の表現では水が油を「はじく」様な水性、油性の混在する媒材の現象的な筆触など多彩な質感が現れている。寺崎武男は、水性と油性の混在する媒材の起こす効果を描写表現に利用し、「ミッドウェー海戦」でも、紙の明るさを活かしながら水彩画のように薄く絵具を塗り重ねてみたり、燃える戦艦の煙や、軍艦旗の描写では油絵具のように盛り上げたりもし、さらに空や煙には水を多めに混ぜ、ここでも水と油がはじくようなテンペラ媒材の引き起こす現象が見られる。これらの戦争絵画は軸装され、丸めて保管されている。利便性を考慮し、持ち歩けるようにしたとも考えられるが、支持体には折れなども発生しており、絵具のインパストなど厚塗りされている箇所もあることから、本来は保存を考え軸装から解体しパネル仕立てや裏打ちしての額装などを推薦したい。状態を考えた今後の修復の方針を検討したい。
5. まとめ
寺崎武男はさまざまな作品を残したが、身近に残る大作では明治神宮聖徳記念絵画館の所蔵大壁画に「軍人勅諭下賜」がある。山縣有朋の養子にあたる山縣伊三郎公爵より委嘱され歴史上の出来事を表現したものだ。画面には明治天皇、軍人勅諭を受ける大山元帥、そのほかに岩倉具視、山縣有朋が描かれた図であり背景の壁面は大きく表現され、そこには当該戦争絵画にも似た勢いのある絵具の筆致が現れている。
戦争絵画はさまざまな目的で描かれたが、「負けた戦争」のみ描いた寺崎武男の戦争画は戦闘で亡くなった兵士への「鎮魂」を目的に「義憤」の心で描かれた。彼はイタリアやスペインにて古典絵画技法を学び、フレスコ壁画以外ではテンペラを多用していた。当時、我が国では現代ほどテンペラを使用する作家はいなかったと考えるのが自然だ。戦後では帝銀事件の平沢貞通受刑者が、我が国のテンペラ画家として世に知られたことがある。寺崎武男は平沢貞通とも親交があったと聞くにつけ、戦後その本格的な技法は世に伝えられ始めていたと考えられる。
今回の作例では、寺崎武男のテンペラ技法によって独特な表現で描かれた水性、油性の混在する媒材を巧みに描画表現に用いた当時では珍しい戦争絵画ということを確認できた。加えて戦闘で亡くなった実在の兵士の姿や様々なモチーフを写したものでもあり、当時の情報をもとに、その時代の作家が表現した貴重な戦史の文化財だ。加えて民間に残るこれらの作品は、フレスコやテンペラなどの絵画技法を海外より伝えた作家による、同時代の出来事を、その希代の手法で表現した我が国の洋画の技法史において貴重な作例であると言うことができる。今回の調査では寺崎武男のご長男、裕則氏より多く資料と貴重なお話を賜り、ここに感謝を申しあげる。
寺崎武男はさまざまな作品を残したが、身近に残る大作では明治神宮聖徳記念絵画館の所蔵大壁画に「軍人勅諭下賜」がある。山縣有朋の養子にあたる山縣伊三郎公爵より委嘱され歴史上の出来事を表現したものだ。画面には明治天皇、軍人勅諭を受ける大山元帥、そのほかに岩倉具視、山縣有朋が描かれた図であり背景の壁面は大きく表現され、そこには当該戦争絵画にも似た勢いのある絵具の筆致が現れている。
戦争絵画はさまざまな目的で描かれたが、「負けた戦争」のみ描いた寺崎武男の戦争画は戦闘で亡くなった兵士への「鎮魂」を目的に「義憤」の心で描かれた。彼はイタリアやスペインにて古典絵画技法を学び、フレスコ壁画以外ではテンペラを多用していた。当時、我が国では現代ほどテンペラを使用する作家はいなかったと考えるのが自然だ。戦後では帝銀事件の平沢貞通受刑者が、我が国のテンペラ画家として世に知られたことがある。寺崎武男は平沢貞通とも親交があったと聞くにつけ、戦後その本格的な技法は世に伝えられ始めていたと考えられる。
今回の作例では、寺崎武男のテンペラ技法によって独特な表現で描かれた水性、油性の混在する媒材を巧みに描画表現に用いた当時では珍しい戦争絵画ということを確認できた。加えて戦闘で亡くなった実在の兵士の姿や様々なモチーフを写したものでもあり、当時の情報をもとに、その時代の作家が表現した貴重な戦史の文化財だ。加えて民間に残るこれらの作品は、フレスコやテンペラなどの絵画技法を海外より伝えた作家による、同時代の出来事を、その希代の手法で表現した我が国の洋画の技法史において貴重な作例であると言うことができる。今回の調査では寺崎武男のご長男、裕則氏より多く資料と貴重なお話を賜り、ここに感謝を申しあげる。
参考文献:イタリア書房,「イタリア図書44〜47」2012,寺崎裕則,東京/館山市立博物館,「寺崎武男の世界」2003,寺崎裕則,館/株式会社光人社,「アッツ島玉砕戦」1999,牛島秀彦,東京/株式会社新潮社,「画家たちの「戦争」」2010,神坂次,福留太郎,河田明久,丹尾安典,東京/新人物往来社,「ミッドウェー海戦[運命の5分間]の真実」2011,左近允尚敏,東京/猫町文庫,「戦時下日本の美術家たち」2010,飯野正仁,山梨
(文化財保存修復学会2013年第35回大会にて)