研究・学会発表
戦時下に描かれた絵画(V)
「陸上自衛隊輸送学校所蔵−武藤夜舟作「七了口揚陸之圖」修復と調査」
「陸上自衛隊輸送学校所蔵−武藤夜舟作「七了口揚陸之圖」修復と調査」
1. はじめに
戦時中に描かれ人知れず残された戦争絵画を修復し、戸籍を付けるような調査・修復を続けている。5回目となる今回は、埼玉県、陸上自衛隊朝霞駐屯地の自衛隊輸送学校には「七了口揚陸之圖」という日本画が所蔵されている。作品は昭和七年、第一次上海事変の際に日本陸軍と海軍の協同作戦による上陸の様子を描いたものだ。作品を描いたのは旧日本軍の将校であり、平福百穂より日本画を学んだ陸軍歩兵大尉の武藤当次郎(雅号/武藤夜舟)であり、当時、武藤が描いた戦争絵画の一つだ。武藤当次郎(夜舟)は他に「柳条湖鉄道爆破」や「満州事変絵巻」なども完成させた従軍画家でもある。
本研究では、「七了口揚陸之圖」の技法、状態調査をおこない修復をおこなった。作品は木製の支持体の狂いから絹本の破れなどが発生し著しく破損していることから、修復の作業では接合不良の支持体を交換し改善を試みた。
本論では作品を中心に、陸上自衛隊輸送学校からのご協力も得ながら、武藤夜舟と七了口への上陸作戦に関してなど、周辺の調査をおこなった。激しい戦闘に発展した上海事変において、陸海軍による機密の揚陸作戦を描き記録した貴重な日本画を修復し、これを報告するものである。
戦時中に描かれ人知れず残された戦争絵画を修復し、戸籍を付けるような調査・修復を続けている。5回目となる今回は、埼玉県、陸上自衛隊朝霞駐屯地の自衛隊輸送学校には「七了口揚陸之圖」という日本画が所蔵されている。作品は昭和七年、第一次上海事変の際に日本陸軍と海軍の協同作戦による上陸の様子を描いたものだ。作品を描いたのは旧日本軍の将校であり、平福百穂より日本画を学んだ陸軍歩兵大尉の武藤当次郎(雅号/武藤夜舟)であり、当時、武藤が描いた戦争絵画の一つだ。武藤当次郎(夜舟)は他に「柳条湖鉄道爆破」や「満州事変絵巻」なども完成させた従軍画家でもある。
本研究では、「七了口揚陸之圖」の技法、状態調査をおこない修復をおこなった。作品は木製の支持体の狂いから絹本の破れなどが発生し著しく破損していることから、修復の作業では接合不良の支持体を交換し改善を試みた。
本論では作品を中心に、陸上自衛隊輸送学校からのご協力も得ながら、武藤夜舟と七了口への上陸作戦に関してなど、周辺の調査をおこなった。激しい戦闘に発展した上海事変において、陸海軍による機密の揚陸作戦を描き記録した貴重な日本画を修復し、これを報告するものである。
2. 職業軍人画家−武藤夜舟
昭和初頭、陸軍省の新聞班に所属していた武藤当次郎歩兵大尉は、戦地で写生を目的に満州の前線へと赴いた経験をもつ職業軍人だったが、軍務の傍らに日本画家の平福百穂に師事し「夜舟」と号した。従軍画家として満州ではスケッチを描き「満州事変絵巻」を制作した。「敵兵退却」「柳条湖鉄道爆破」「三官房附近大島聯隊の攻撃」などパノラマのような遠景からの風景を記録、表現している。当該作品も俯瞰した風景のパノラマ表現となっている。
昭和初頭、陸軍省の新聞班に所属していた武藤当次郎歩兵大尉は、戦地で写生を目的に満州の前線へと赴いた経験をもつ職業軍人だったが、軍務の傍らに日本画家の平福百穂に師事し「夜舟」と号した。従軍画家として満州ではスケッチを描き「満州事変絵巻」を制作した。「敵兵退却」「柳条湖鉄道爆破」「三官房附近大島聯隊の攻撃」などパノラマのような遠景からの風景を記録、表現している。当該作品も俯瞰した風景のパノラマ表現となっている。
「敵兵退却」
「柳条湖鉄道爆破」
「三間房附近大島卿隊の攻撃」(武藤夜舟「満州事変絵巻」昭和に12年 軍人会館出版部発行 )より
(上)作品画像は、芸術新潮1995年8月号48頁より転載
(上)作品画像は、芸術新潮1995年8月号48頁より転載
3. 第一次上海事変と揚子江・七了口揚陸の作戦
上海の事変は2度にわたって起こるが、当初の第一次上海事変は昭和7年、1932年満州事変後、上海で中国人の抗日運動が多発、中国人による日本人僧、天崎天山らが襲撃されるという事件を発端に市内の情勢は激化し市内でのデモや暴動等も発生、次第に日本は居留民保護などの名目で海軍艦艇と陸戦隊を派遣することとなり、軍事衝突にまでに至った。その後、日本陸軍は上海派遣軍を編成し上海へとわたる。強力な中国軍に対し、さらに揚子江の七了口より秘密裏に上陸し、第11師団らが国民党軍の背後に迫り、蔡廷カイ(漢字は金編に皆)が率いる19路軍はようやく退いたと伝えられる。
上海の事変は2度にわたって起こるが、当初の第一次上海事変は昭和7年、1932年満州事変後、上海で中国人の抗日運動が多発、中国人による日本人僧、天崎天山らが襲撃されるという事件を発端に市内の情勢は激化し市内でのデモや暴動等も発生、次第に日本は居留民保護などの名目で海軍艦艇と陸戦隊を派遣することとなり、軍事衝突にまでに至った。その後、日本陸軍は上海派遣軍を編成し上海へとわたる。強力な中国軍に対し、さらに揚子江の七了口より秘密裏に上陸し、第11師団らが国民党軍の背後に迫り、蔡廷カイ(漢字は金編に皆)が率いる19路軍はようやく退いたと伝えられる。
4. 揚陸作戦と大発動艇(上陸用舟艇/略して大発ともいう)
当時、海岸や河川から敵陸地に這い上がって戦う上陸戦では、人員や武器などを移送する手段として「はしけ」のような船艇などを用い、タグボートで牽引したりする方法がとられたが日本軍はすでに上陸用の舟の開発を進めており、極東に在留するアメリカ軍などへの対抗策としても上陸船艇は重要視された機密の開発であった。第一次上海事変では、日本軍は牽引なしで進み、上陸作業が容易な自走式のいわゆる大発動艇をはじめて実戦の作戦に採用し、上海派遣軍の第11師団を大発で輸送、揚子江の七了口より上陸し、中国国民革命軍第19路軍の背後に迫り撤退に追い込んだという戦史が伝えられている。当時、日本軍の大発動艇は、画期的な機動力を持ち合わせており、陸軍は軍事機密として報道関係には写真を一切禁止したことから秘密裏に遂行された揚陸作戦の視覚的な資料は乏しかったと考えられる。
当時、海岸や河川から敵陸地に這い上がって戦う上陸戦では、人員や武器などを移送する手段として「はしけ」のような船艇などを用い、タグボートで牽引したりする方法がとられたが日本軍はすでに上陸用の舟の開発を進めており、極東に在留するアメリカ軍などへの対抗策としても上陸船艇は重要視された機密の開発であった。第一次上海事変では、日本軍は牽引なしで進み、上陸作業が容易な自走式のいわゆる大発動艇をはじめて実戦の作戦に採用し、上海派遣軍の第11師団を大発で輸送、揚子江の七了口より上陸し、中国国民革命軍第19路軍の背後に迫り撤退に追い込んだという戦史が伝えられている。当時、日本軍の大発動艇は、画期的な機動力を持ち合わせており、陸軍は軍事機密として報道関係には写真を一切禁止したことから秘密裏に遂行された揚陸作戦の視覚的な資料は乏しかったと考えられる。
5. 「七了口揚陸之圖」に描かれた揚陸作戦
作品に描かれたのは七了口に上陸したと言われる第11師団の姿であろうか、荷物を運び入れる兵士や馬、機材が見られ、川には引き船から舟を引き、竹木のような目印に沿って入江に入る姿が描かれている。やはり60名ほどの兵士が乗船可能という揚陸用艇と言われる大発などは描かれてはいないが、遠方に次々に描かれた輸送船、陸地では臨時に設営した基地を中心に作業に追われる兵士が描かれ、数千人による師団の上陸の作業風景がパノラマ状に手に取るように描かれている。
作品に描かれたのは七了口に上陸したと言われる第11師団の姿であろうか、荷物を運び入れる兵士や馬、機材が見られ、川には引き船から舟を引き、竹木のような目印に沿って入江に入る姿が描かれている。やはり60名ほどの兵士が乗船可能という揚陸用艇と言われる大発などは描かれてはいないが、遠方に次々に描かれた輸送船、陸地では臨時に設営した基地を中心に作業に追われる兵士が描かれ、数千人による師団の上陸の作業風景がパノラマ状に手に取るように描かれている。
6. 作品の組成・状態調査と修復
絹に描かれた作品は和紙で裏打ちがされている。杉材と見られる板を三枚、水平方向に組み合わせ、同じく水平方向に角材3本により補強され、継ぎ合わされた板に袋張りし、支持体としている。
画面を観察すると、日本画用の岩彩、朱、白群、黄土、岱赭等また、墨や胡粉を用いて描かれている。下描きをおこない、描線に沿って彩色されていることがわかる。作品は、支持体である継ぎ合わされた杉材がやや変形し、張込まれた絹が画面中央まで破れている。絹の破れは画面の上方数カ所に見られる。絹は著しく汚れ、酸化し染みやカビの発生等も伴い、さらに破れた箇所に施された古い補彩も変色し、画面は著しく暗く見える。
修復は、継ぎ合わされた木製の支持体を適切な支持体に交換することが第一の目的、まずは絹本を支持体から外す事、解体することから始めた。そして歪んで汚れた絹を洗浄、しみ抜きなどをおこない和紙により裏打もおこなった。新しく準備したパネルは数本の桟で校正された木製パネルで、表と裏に板を張込み、安定性を向上させたものだ。洗浄等の修正後新しいパネルに張込んだ。張り込み後は、破れ部分には補絹して岩絵具を用いた補彩をおこなった。
絹に描かれた作品は和紙で裏打ちがされている。杉材と見られる板を三枚、水平方向に組み合わせ、同じく水平方向に角材3本により補強され、継ぎ合わされた板に袋張りし、支持体としている。
画面を観察すると、日本画用の岩彩、朱、白群、黄土、岱赭等また、墨や胡粉を用いて描かれている。下描きをおこない、描線に沿って彩色されていることがわかる。作品は、支持体である継ぎ合わされた杉材がやや変形し、張込まれた絹が画面中央まで破れている。絹の破れは画面の上方数カ所に見られる。絹は著しく汚れ、酸化し染みやカビの発生等も伴い、さらに破れた箇所に施された古い補彩も変色し、画面は著しく暗く見える。
修復は、継ぎ合わされた木製の支持体を適切な支持体に交換することが第一の目的、まずは絹本を支持体から外す事、解体することから始めた。そして歪んで汚れた絹を洗浄、しみ抜きなどをおこない和紙により裏打もおこなった。新しく準備したパネルは数本の桟で校正された木製パネルで、表と裏に板を張込み、安定性を向上させたものだ。洗浄等の修正後新しいパネルに張込んだ。張り込み後は、破れ部分には補絹して岩絵具を用いた補彩をおこなった。
武藤夜舟 作「七了口揚陸之圖」 修復後
修復前
修復後/裏面
修復前/裏面
修復前近接写真
画面左上方:旧補彩跡
画面中央上方:絹由外とシミ
画面中央:破れ
修復工程写真
洗浄後/和紙による裏打ち
破れ箇所の継ぎ合わせ
欠損箇所に補絹をおこなう
しみ抜きを繰り返す
古い補彩を除去する
7. まとめ
戦争画の目的の一つに、戦事を記録するという事が挙げられる。七了口への揚陸は陸海軍合同の作戦であり、大発動艇も初めて実戦採用したと伝わる画期的な作戦だった。画面には、大発を使った勇ましい揚陸の様子はなく、船団や引き船による作業風景が描かれていた。軍事機密の作戦であったこと、撮影や資料公開も制限されたことから軍務に務めた武藤夜舟はそれらの機密事情を周知していた可能性もあり、描写には細心の注意を払ったとも考えられるが、そのような重大な作戦でありながら画像資料等の少ないこの戦事をパノラマに描き残した事に大きな意味がある。
修復では継ぎ合わされた板に張込まれ、板の狂いによって発生した絹の破れは、一枚板に移し替えて修正し、裏打して補強した絹本をその上で破損部に補絹しながら補彩によって目立たなくした。
掲載した写真の一部は毎日新聞よりご提供いただいたもので、同社記者である佐々木泰造氏は、「敵の背後をつく秘密作戦だったことから、写真はないのかもしれない。写真の撮影ができないからこそ想像でも描くことができる従軍画家の存在価値があったのだろう」というご意見もありました。
今研究では、陸上自衛隊輸送学校の前校長、増田潤一氏より画面に描出された戦術に加え、当時、大発動艇が導入された事実、作品に描かれた歩兵の襟章の彩色等も詳細にご意見を頂戴しました。研究科長の森下智氏より武藤夜舟のご遺族様周辺の情報を、また総務課の高瀬浩幸氏を通じ、輸送学校から多くの貴重な資料をご提供いただきました。また毎日新聞社、佐々木泰造氏より稀少な資料のご提供など多大なご協力を得ることができました。皆様に感謝を申し上げます。
戦争画の目的の一つに、戦事を記録するという事が挙げられる。七了口への揚陸は陸海軍合同の作戦であり、大発動艇も初めて実戦採用したと伝わる画期的な作戦だった。画面には、大発を使った勇ましい揚陸の様子はなく、船団や引き船による作業風景が描かれていた。軍事機密の作戦であったこと、撮影や資料公開も制限されたことから軍務に務めた武藤夜舟はそれらの機密事情を周知していた可能性もあり、描写には細心の注意を払ったとも考えられるが、そのような重大な作戦でありながら画像資料等の少ないこの戦事をパノラマに描き残した事に大きな意味がある。
修復では継ぎ合わされた板に張込まれ、板の狂いによって発生した絹の破れは、一枚板に移し替えて修正し、裏打して補強した絹本をその上で破損部に補絹しながら補彩によって目立たなくした。
掲載した写真の一部は毎日新聞よりご提供いただいたもので、同社記者である佐々木泰造氏は、「敵の背後をつく秘密作戦だったことから、写真はないのかもしれない。写真の撮影ができないからこそ想像でも描くことができる従軍画家の存在価値があったのだろう」というご意見もありました。
今研究では、陸上自衛隊輸送学校の前校長、増田潤一氏より画面に描出された戦術に加え、当時、大発動艇が導入された事実、作品に描かれた歩兵の襟章の彩色等も詳細にご意見を頂戴しました。研究科長の森下智氏より武藤夜舟のご遺族様周辺の情報を、また総務課の高瀬浩幸氏を通じ、輸送学校から多くの貴重な資料をご提供いただきました。また毎日新聞社、佐々木泰造氏より稀少な資料のご提供など多大なご協力を得ることができました。皆様に感謝を申し上げます。
写真左:第1次上海事変 揚子江沿岸、瀏河鎮付近に上陸の増派日本軍1932年03月撮影
キャプションに記された記述:「揚子江沿岸、瀏河鎮の七了口に上陸した第12連隊、竹槍をひっさげて・付属情報:増派の第11師団は3月1日午前6時、上海の西北焼く40キロ揚子江沿岸の瀏河鎮の付近に上陸」/「毎日新聞社提供」
写真右:昭和7年1月占領地奉天の張学良邸で絵筆をとる武藤夜舟/芸術新潮1995年8月号48頁より
キャプションに記された記述:「揚子江沿岸、瀏河鎮の七了口に上陸した第12連隊、竹槍をひっさげて・付属情報:増派の第11師団は3月1日午前6時、上海の西北焼く40キロ揚子江沿岸の瀏河鎮の付近に上陸」/「毎日新聞社提供」
写真右:昭和7年1月占領地奉天の張学良邸で絵筆をとる武藤夜舟/芸術新潮1995年8月号48頁より
写真左:「大発動艇」イカロス出版「ミリタリー選書32第二次大戦・冷戦期の知られざる精鋭たち世界の名脇役兵器列伝 エンハンスド」113頁より
写真右:潮書房 丸スペシャルNO.53「日本の小艦隊」68頁より1938年日中戦争にて/特種船「神州丸」船尾より発進する大発および小発
写真右:潮書房 丸スペシャルNO.53「日本の小艦隊」68頁より1938年日中戦争にて/特種船「神州丸」船尾より発進する大発および小発
参考文献:新潮社,「芸術新潮1995年8月号」1995,東京/株式会社新潮社「 画家たちの「戦争」」2010,神坂次,福留太郎,河田明久,丹尾安典,東京/イカロス出版「 ミリタリー選書32第二次大戦・冷戦期の知られざる精鋭たち 世界の名脇役兵器列伝 エンハンスド」,有馬桓次郎、印度洋一郎、太田晶、山下次郎,2012,東京
(文化財保存修復学会2014年第36回大会にて)